◆牧師室より◆



「わたしのいる所に」

         ヨハネによる福音書14章1〜7節
                                            保科  隆

 私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとへ迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(2〜3節)  

  11月第一主日は、日本基督教団の暦では天に召された方々を覚える日として定められています。福島教会でも昨年から、11月第一主日に逝去者記念礼拝を守るようになりました。日本の教会では逝去者記念の日の定め方は教会によってさまざまのようです。なぜ、そうなのかと考えるならばまさに真正面から日本伝道の課題に取り組むような問題と触れることになるでしょう。
  さて、ヨハネによる福音書14章は13章から始まる主イエスの弟子たちに対する別れの説教の一部です。この説教は16章まで延々と続きます。その別れの説教の中においていくつもの大切な言葉が語られています。この箇所もその一つです。ここは教会で行われる前夜式において読まれることが多いのです。なぜでしょうか。それは前夜式に読まれるのがふさわしいと考えられるからです。
  「私の父の家には住む所がたくさんある」は文語訳の聖書では「わが父の家には住みか多し」でした。簡潔で覚えやすかったものです。これは主イエスが地上にあって弟子たちに語られた最後の言葉のひとつです。「住みか」とは何でしょうか。「居場所」のことです。若い人も老いた者も皆、異口同音に「自分の居場所がない」と言っている、その「居場所」です。現代の日本の社会は、とりわけ2011年3月の大震災を経験した被災地にあってはこのことが現実の事として、今もなお大きな問題となっています。なぜでしょうか。それは何度も何度も自分たちの居場所を失う経験を余儀なくされたからです。原発の事故によって自宅から退去することを強制され、また津波の被災地では自宅を流されて自分たちの居場所を失いました。しかし、居場所の喪失の経験はそれで終わりではありません。政府や県が用意した仮設の居場所も年限があり、やがて復興住宅が建てられたときは、そこを去らねばなりませんでした。せっかく作り上げた自分たちのコミニティーです。自分たちの居場所です。しかし、すぐに喪失です。そんな馬鹿な話はないではないか、といっても駄目です。つまり無理やり自分たちの居場所を取り上げられたのです。自然の災害のためというだけではすまされないと思われます。
  主イエスは弟子たちに語ります。「私の父の家には住む所がたくさんある」。自分が今、この世から去っていくのはなんのためか。それはあなたがたのために場所を用意するためです。いつも自分の居場所がないといって嘆くわたしたちです。それに対して「居場所を用意しに行く」と語る主イエスがおられます。居場所は仏教が教えてきた極楽や浄土の世界ではありません。どこが違うのでしょうか。主イエスが語る「居場所」は、主イエスの十字架の死によって用意される居場所です。主イエスの犠牲がささげられているのです。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、(略)キリストの尊い血によったのです」(Tペトロ一章18節以下)
  
 

近況および所感



会堂入り口 晩秋の信夫山









  カール・バルトとともに20世紀を代表する神学者のパウル・ティリッヒ(1886〜1965)の説教に心惹かれるものがある。最近、時間に余裕のある時にティリッヒの説教を読んでいる。一字一句をかみしめるようにして読み進まなければとても頭に入らない。ティリヒの説教の特色は人間が生きている現代の状況を人間学的に分析しつつ様々な課題を見出し、その課題克服の答えを聖書の中から得ようとするものである。時には心理学的な人間の心の分析も用いられている。したがって現代を生きる人間についての思索をしながら説教が進んでいく。今、読んでいる書物は白水社から出版され全部で11巻ある著作集の中の「説教集」である。元になる説教はそれぞれ別な書物として『地の基が震い動く』、『新しい存在』、『永遠の今』として刊行されている。
  ティリヒの説教に初めて出会ったのは、まだ洗礼を受けて間もないころ、東京神学大学に入る前だった。当時は会社勤めのサラリーマンをしていた。ある日に東京、銀座の教文館に立ち寄り、新教新書の中の一冊として収められている『永遠の今』を手にした。同時に英文の『永遠の今』も買い求め友人ととともに読んだ思い出がある。その友人は現在、は上智大学の神学部の教授をしている。もちろんカトリックの修道会であるイエズス会の司祭でもある。ともに東京神学大学の夜間講座で同期生として学んだ。私はカトリックへは行かずに会社を退職して東京神学大学の学部三年に編入学をして牧師になる道を進んだ。進んだ道は違いもあるが神からの召しに応えることにおいて同じであると思っている。
  さて、今、読んでいるティリヒの説教の中で印象に残る言葉を記したい。ティリヒは次のように言う。「現在宗教で多く用いられている言葉は、本来の意味がほとんど完全に消え、人の心に対する衝撃がほとんどとるに足らぬものになっているからです。このような言葉は、可能な限り、再生されなければなりません」。教会で使い古された言葉の再生の考え方に立ちティリヒはキリスト教の伝統的な用語を別な言葉に言い換える。例えば愛は「分かたれた者の再結合」また信仰は「究極的な関心」罪は「自分自身や神から離反していることに気づかない状態」などである。すでに、近代神学の父と呼ばれるシユライエルマッハが信仰を「絶対依存感情」と言い換えたのと言い換える点は同じでもある。そのような言葉を聞くと当時の会衆は分かった気になったのである。もっともティリヒの説教は教会でなされたのではなくそのほとんどが大学の礼拝でなされた。しかし、ティリヒの説教を聞いた会衆が実際に心の病から立ち直り癒されたと言われている。
  例えば詩編の130篇の「主よ、私は深い淵からあなたに呼ばわる」のみ言葉から「現実存在の深み」という説教をする。聴衆に対してこう語りかける。「深いという言葉が、霊的な意味で用いられる場合には、二つの意味を持っております。つまり「浅い」の反対を意味する場合と、「高い」の反対の意味を持つ場合のいずれかであります。真理は深いのであって、浅くはありません。苦しみは深いものであって、高いものではありません。真理の光も、苦しみの暗さも深いものであります。神の内には一つの深さがあります。また、詩編詩人がそこから神に向かって呼ばわる深いところもあるのです。なぜ真理は深いのか。なぜこの同一の象徴的表現が、こうした二つの経験の表現として用いられるのか。こうした問いが、私どもの黙想を導くでありましょう」。
  ティリヒに従い2011年の震災を経験した東北の被災地に立ち「愛」の言葉を言い換えるならば「絆」とか「寄り添う事」と言えるかもしれない。震災後「寄り添う」と絶えず言われ続けた。流行語になった感もある。しかし、そこを入口にしてキリスト教の神の愛について語ることが出来るかである。