◆牧師室より◆



「羊を狼の中へ」

         マタイによる福音書10章16〜23節
                                      保科  隆

 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡されて、会堂で鞭打たれるからである。(16節、17節)

  主イエスは12弟子を選ばれてからすぐに彼らを伝道に派遣されました。その時に「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(6節)と言われています。寄り道をしないでまっすぐに目的地を目指すようにと言われたのです。そして、弟子たちを伝道へ遣わすのは「狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ」とも言われます。羊が狼の群れの中に送り込まれたらどうなるのでしょうか。羊はみな殺されてしまうでしょう。つまり、伝道に出て行く弟子たちは命を失うような危機に陥ると言われるのです。言葉を言い換えるならば迫害に会うのです。したがって、ここに記される伝道へ人を送り出す教会の姿は厳しい迫害に耐えている教会です。
  翻って私どもの信仰生活の現実はどうでしょうか。ここで主イエスが弟子たちを伝道に派遣される時に語られた「羊を狼の中に送り込む」というような迫害の中に信仰生活を送っているような人はいるのかと問われます。もちろん他人の事としてではなく自分の事として問われます。その時にどう考えてみても迫害などとは関係のない自分の生活であることを認めざるを得ません。主日礼拝に出る時に家族のものから妨害を受けると言うようなことがあるかもしれません。しかし、それで命を奪われることはないでしょう。富山の教会にいたころに同居している姑から教会の礼拝に行くことを反対されて「買い物に行く」と嘘をついて出てきますと言った教会の方がおられました。地域性もあるかもしれませんが、そういう人の事を考えても、それがここで言われる命の危機の中にある信仰生活とは言えません。 
  もしそういう事であれば、このみ言葉は私どもにとって何の力にもならず、何の慰めにもならないものになるのでしょうか。迫害のない教会には迫害の中におかれている初代の教会について語る資格などないということになるのでしょうか。もちろんそれは違います。どう違うのでしょうか。一つの言葉に注目します。「地方法院に引き渡されて」の「引き渡す」です。ここでは「引き渡される」のは伝道に出て行く弟子たちです。使徒言行録を読めば弟子のペトロやヨハネが議会で取り調べを受けたことが記されます。その時に彼らは議会に引き渡されています。;
  覚えたいのは彼らの師である主イエスが弟子たちに先立って最高法院に引き渡されており、そこで裁きを受けられていることです。また鞭で打たれる経験もしておられます。マルコによる福音書は15章15節で次のように記します。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」主イエスが迫害を受けようとする弟子たちに先立ち鞭で打たれ、十字架につけられるために引き渡されているのです。弟子の伝道への派遣は、主イエスの十字架の死を思うときでもあります。迫害があるなしに関わらず主の十字架は人の救いのために立てられているからです。
  

近況および所感



会堂入り口 初夏の吾妻連峰









  今年は4月と5月に二度入院をして手術を受けました。4月は外科で5月は耳鼻科での手術でした。特に耳鼻科の手術では狭い手術台の上に乗せられて全身麻酔を受けました。全身麻酔は人生で初めての経験です。手術をうける前日の夕方に麻酔科医が病室まで来て麻酔の説明をし、「麻酔を受けられる方へ」というパンフレットを渡してくれました。パンフレットを読んでも実際にやってみなければ分からないものです。 
  手術台の上では外科の時と同じように左腕には自動で動く血圧計がセットされ、右腕の指には酸素濃度を測る器具と腕には点滴のための針。胸には心電図のためのモニターが貼られ、外科の時と違いホクナリンテープとかフランドルテープが貼られていました。何の目的のテープかよくわかりませんが念のためでしょう。左鼻の中のポリープ切除の手術時間は約一時間と聞きました。麻酔科医の声で「普通に息をしてください」と言われるままに二三度息をしているとあとは何もわからなくなりました。「手術が終わりましたよ」との医師の言葉は意識が戻って最初に聞いた言葉です。 
  手術室を出てから3時間ぐらいリカバリー室に入りました。ここで何とも説明のつかない経験をしました。もちろん術後で意識はかなり戻っていてもまだ頭の中はボートしていている状態です。ところが同じリカバリー室の中で話されている人の会話がよく聞きとれます。リカバリー室には5つのベットがあるそうです。満室かどうかは分かりませんでした。リカバリー室の外の廊下で会話している声までも聞こえます。聖徳太子は7人の人が同時に話しかけても全部聞きわけられたと言うような伝説がありますが、そんな思いにさせられました。あれは何だったのでしょうか。意識が混濁の状態でどうしてなのかわかりません。会話の声が澄んでいて明るい声に聞こえました。大きな声も小さな声もよく聞こえました。このように人生には何とも説明のつかないことがあるように思います。
  ところがこの世界の事はすべて説明できると考えるのが仏教の立場です。入院中の5月14日の日曜日の朝にEテレで「大拙先生とわたし」という番組を見ました。話していたのは金沢にある「鈴木大拙館」の名誉館長をしている岡村美穂子という方でした。岡村さんは若いころから大拙に師事していたようです。実に興味深い話をいくつも聞きました。大拙は日本の禅仏教を英語で書き語り海外に紹介した学者です。岡村さんも英語がよくできて海外で大拙と行動を共にして講演会の後に聴衆からの質問に大拙が答えるのを日常的に聞いていたそうです。 
  或る時に聖書の創世記に記されるアダムの堕罪について大拙に質問した人がいました。人間はどうすれば罪を犯さないようになれるのかとの問いです。これに対して大拙は「もう一度アダムが罪犯せばいいのではないか」と答えたと言うのです。これが禅仏教の立場です。罪の自覚が出来ないから罪を犯すので罪の自覚をするためにもう一度でも何度でも罪を犯せばいい、罪を自覚すれば人間は罪を犯さなくなると大拙は考えたのでしょう。また神が天地を創造する前に何をしていたのかを考えるのが禅仏教だ、とも語っていたようです。禅仏教ではすべてにおいて自覚、気づくことが大切で、またすべてのことが説明されると考えているからです。キリスト教とは根本的に考えが違います。キリスト教では神が天地創造以前に何をしたのかを考えることは全く無意味であって、それは神のみが知られることであり人間には分かりません。分からなくてよいのです。
  今回の入院生活は一週間でした。病院の食事を一日三回食べて多少痩せたものの普段は読めない本をゆっくりと読むことが出来ました。テレビで見た岡村さんの大拙についての話も興味深いものでした。