◆牧師室より◆



「赦されることがない罪」

         マタイによる福音書12章31〜32節
                                      保科  隆

  だから、言っておく。人が犯す罪や冒?は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒?は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(31節〜32節)

  聖書の中には理解に苦しむ言葉が時々記されていますが、ここに記される言葉はその中にあっても、難解な言葉と言われてきました。なぜでしょうか。ここには、赦されない罪があると記されているからです。だれが言われたのでしょうか。十字架の主イエスです。十字架の上で自分を十字架につけようとする人々に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈られた方が赦されない罪があると言われたのです。誰に対して言われたのでしょうか。ファリサイ派の人たちです。
  彼らは、安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたのを見て「安息日にしてはならないことをしている」と言って批判しました。さらには、安息日に手の不自由な人の手を癒された主イエスに対して「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた人たちでもあります。もちろん彼らは、病気であっても安息日に直すことは赦されていないと考えていました。とにかく、ファリサイ派の人たちは「分離派」と呼ばれ、自分たちは他の人たちと分離しており、とにもかくにもたくさんある律法の言葉を厳重に守ることに命を懸けていた人たちです。しかし、このような人たちは私どもにとって果たして無縁でしょうか。私どもも十分に「ねばならない」との考えに縛られながら生きているのではないでしょうか。そうであればファリサイ派の人たちと同じです。安息日だからこれをしてはならない、あれもしてはならない、そこから自由になることが出来ません。そうであれば繰り返しますがファリサイ派の人たちとなんら変わるものではありません。
  事の起こりは悪霊に取りつかれて目と口が不自由な人を主イエスが癒されたことによるのです。ファリサイ派の人たちは、これを見て悪霊の頭の力によるものだと言ったのです。それに対して主イエスは答えました。その答えの結論として、この言葉が語られているのです。注目すべきは「人の子に言い逆らう者は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われることです。
  「人の子」は主イエスです。主イエスは受肉した神の子です。人として生まれ人として歩まれました。つまり、人の目に見えるものとなりました。「あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4章15節)と記されています。主イエスの見える姿の人としての歩みです。しかし、聖霊なる神は違います。目に見えない存在です。さらに言えば、今ここに生きて働く神の力です。主の日に守る礼拝も聖霊の生きた働きの中で守られているものです。聖霊に対する信仰がなくて礼拝を守ることは出来ません。ところが、ファリサイ派の人たちはその見えざる聖霊の働きを「悪霊の頭」によると言ったのです。だから主イエスのこの言葉は、売り言葉に買い言葉のようにして語られたものです。神は聖霊として見えないものであるのだから、その働きを悪霊の業であるというのでは、どうにも救いようがないのです。
 

近況および所感



会堂入り口 じゃがいも畑と吾妻連峰









  『神が遣わされたのです』をこの秋に自費出版した。今年の8月で70歳になったことを記念しての出版である。長い間、赴任先の教会の方々に書くことを約束していたキリスト教に基づく『信仰問答』を内に納めている。40の問答にまとめたが本を手にした方々は是非読んでいただきたい。自分なりの問題意識を持って問答を作成した。自分の問題意識は、この本の「回顧70年」に記したが日本の習俗や諸宗教を踏まえたうえで「なぜキリスト教なのか」である。もっともこのような問いは人によっては自明な事であって改めて問うものでないと考えるかもしれない。生まれた時からキリスト教であって、気が付いたときには教会に通っていたので「なぜキリスト教なのか」と考えたことはないと言う人もいる。しかし、私はそういう生まれではない。全く違う環境の中で、むしろ異教徒として育ったので受洗以来この問いは常に持ち続けてきた。同時に今日の日本の教会の伝道の困難を意識しつつ40の問いと答えを考えた。もちろん40で十分とは言えない。信仰問答は、今後の自分の課題と受け止めている。
  さて、キリスト教の歴史で信仰の事柄を問答形式で記す伝統は、すでに旧約の時代からある。また、今年で500年になる宗教改革の時代以後はヨーロッパの教会においてハイデルベルク信仰問答をはじめ沢山の優れた信仰問答書が書かれた。日本においては、キリシタンの時代に「妙貞問答」という書物が書かれている。著者はカトリックの修道士のハビアンである。妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答する形で上、中、下の三巻構成になっている。キリシタンの研究者の海老沢有道によると、この書物は、仏教のむなしいことや、儒教や神道を排斥し、キリシタンの教理を擁護した護教的な教理書であるという。護教的かどうかは別として、今日、この問答書に書かれているような仏教や日本の神道とキリスト教との違いを意識する傾向は弱い。例えば最近、井上洋冶の著作選集が出版されているが書物の題をみても、「法然、イエスの面影をしのばせる人」などとある。あきらかにキリシタン時代の「妙貞問答」の問題意識とは異なっている。
  キリスト教からは離れるが仏教の禅の立場に立つ沢山の禅問答がある。問答の形式は同じだがキリスト教とはかなり異質な問答がそこにある。禅問答といえば、なんだかわけのわからない言葉で煙にまかれるとの印象が強い。例えば『無門関』という禅の書物がある。一番初めに次のような問答がある。「趙州和尚、ちなみに、僧問う、狗子に還って仏性有りやまた無しや。州云く、無」。狗子は犬の子どものこと。つまり犬の子どもに仏性があるかないかと僧は尋ねる。趙州和尚の答えはただ一言で「無」という。これで問答が成り立っているのが禅である。つまり仏教では一切衆生悉有仏性という基本的な立場があり、当然、犬の子どもにも仏性があると考えられる。そのような答えを見越して僧は和尚に問いかけている。答えはその逆で「無」である。この答えの「無」は有り無しの無ではない。有無をこえた「無」の世界があると僧に教えている。これが禅問答である。禅問答は問うものと問われるものの二人の間においてだけ成り立っている問答で他の者には分からない。だから第三者は煙にまかれた印象が残る。問いと答えというよりは問いとと問いのような問答である。「あなたは阪神ファンか」と聞かれて「どこの生まれと思っているの」と答えているのと同じ。つまり「阪神ファンか」と聞いている人は、相手が大阪の生まれであることを知っていることが前提でこの問答が成り立っている。つまり、自分は阪神ファンと答えているのである。問答する者の両者に共通の理解と場がある。その上での問いがなされ、また問いのような答えがある。そう考えれば難解な禅問答が見えてくる。いずれにしてもキリスト教の信仰問答とは異質である。